―蛍の淡夢―


空は此処にあって、僕はその遥か下に存在している。

夜空に映える無数の光は、小さな僕らに何かを囁く……

 一、町景色。
 初夏、六月十日に僕たちは蛍が群れる水辺へと、向かう約束をしていた。
「今日は何分の遅刻になるんだろうな……大体一時間ってところか」
 待ち合わせ場所に指定していた駅前に到着したものの、肝心の紗稀の姿は無かった。こじんまりとした田舎近い小さな町の駅だから、たいした広さもない。徒歩二分でホームから駅舎の入り口までを一往復でき、駅内にあるものといえば切符売り場と改札口だけだった。
これだけ露骨でシンプルな造りになっているのに見落としたなんてことはありえない。
 まあいつものことだろうと半ば諦めつつ、大っぴらに肩を竦めた。

 雨が降った翌日ということもあって、湿気を多く含んでいるひんやりとした空気が流れていた。
涼しいという程の風量ではなかったが、乾燥無風よりも断然ありがたい。
駅向かい、町端に見える緑の山々から吹き降りる風が僕の髪を靡く。僕は左側に寄った前髪を軽く左手で整えつつ、空いている右手で駅隣のコンビニで買ったペットボトルのミルクティーを口一杯分だけ含む。滑らかな飲み応えと喉が潤っていくのを十二分に感じてから、蓋を閉めて肩に掛けていた手提げ鞄に戻した。
 当分紗稀は来ないだろうと踏んで肩から鞄を下ろし、背伸びをしながら空を見上げると、疎らに明暗分かれた灰色の雲が並んでいた。
梅雨入りしている以上、このような不安定な天気が続くのは仕方の無いことだと思う。それに毎年世間を賑わせる渇水問題のこともあるので、降らないことよりは降ることを願ったほうがいいのだろうか。
内心では降って欲しくないと思っているのだけれど。まあ、複雑な心境である、ということにしておこう。
僕は雨対策として常に手提げ鞄の中に折り畳み傘を一本入れているのだが、それほど大きなものでもない。
実情、折り畳みに求められているものは持ち運びの利便性、手頃な価格基準であって、強度や大きさは二の次に考えられている。
言い換えると使いやすさとしては下の上、というところだろう。二人で相合傘なんてしようとすれば、ずぶ濡れになるのはまず間違いない……紗稀が用意してくれていることを切に願いつつ、駅舎の柱に寄り掛かった――

「ったく、毎度毎度何をするとこんなに遅くなるんだ?」
 暫くの間、ハードカバーの小説を読みながら待っているとようやく紗稀がやって来た。
少しでも遅れを埋めようとしたのだろうか、息を切れ切れさせながら駆け足で側へと近づいてくる。僕は読みかけの本に枝折りを挟み、紗稀に顔を向けながらそれを閉じた。
「ごめんごめん。ちょっと用意をしてたんだよ。懐中電灯とかカンパンとか」
「か、カンパンって何に使うんだよ」
「決まってるでしょ。『きんきゅーようしょくりょう』だよ」
「そ、それって災害用じゃないのか……ま、まあ無いよりはあった方がいいのか」
 紗稀の思考回路は少しだけ独特というか、天然というのか、そんな感じ。記憶が正しければ去年の修学旅行にもこれと同類のものを持ってきていたような気がする。
だがそれとは裏腹に、世間から見るとしっかり者だと思わせる端正な顔立ちをしていて、心の内を見え透いてしまうような漆黒の瞳に、細い白肌の腕。少し強く握ると折れてしまいそうなその腕は見るからに重そうなリュックを抱えている。
「あとね……これこれ。写真撮りに行くんだもんね。これがないと写真家として恥ずかしいよ」
 行商人が背負っている袋みたいに膨らんだリュックから、紗稀はいかにも高そうなカメラを取り出した。
大分前に聞いた話によれば、病気で入院する際に祖母から渡された大事なカメラらしい。入院後、手術も甲斐なくその祖母は亡くなったとのこと。それを聞いて、紗稀の祖母は自分が亡くなるということを悟り、紗稀に大切なものを託したものなのかもしれないなと感じた。
自分の父親が亡くなる前にそう言っていたからだろうか。たぶん、そうだと思う。
 んしょ、と出したカメラをあのリュックに戻している紗稀。彼女が流麗に着こなしている白のワンピースは彼女の栗色の髪と絶妙に似合っていて、通り過ぎる人々が必ず目を向ける程だった。
聞くところによれば、校内では彼女のファンがいるのだとか。それも一人や二人程度ではないらしい――
……下手に二人きりでいるところを見られたらどうなることやら。考えるだけでも背筋が冷たくなる。
 おにぎりなどがごっちゃに混ざっている鞄の中を適当に整理し、空いたスペースの中へ手に持っていた本をそっと入れた。
「ねぇ、聞いてるー?」
 ブンブンと顔の前で手を振っている。顔を上げてなに?、と聞いてみると「聞いてなかったんならいいよー」とむっすりした表情になった。
「ごめんごめん。今度はちゃんと聞くから。んで、何て言ってたん?」
 そのふくれっ面があまりにも可哀相で、僕は何を言っていたのか、改めて紗稀に訊いてみた。
「常磐くんも……カメラ、持ってきたのかなって聞いてみただけ」
 フン、とむっすりした表情のまま投げ捨てた台詞を僕はそっと拾い上げた。
「あぁ、持ってきてるよ。僕も大事なやつを、ね」
 それは会社員をやってたフツーだった親父が唯一好んでやっていた風景の撮影に使っていたカメラ――去年の暮れ、亡くなるたった数時間前に、「俺の血を引いてるお前が使ってくれるなら、こいつも喜んでくれるだろう」、と一言添えて渡されたものだ。親父が密かに貯金していたお金で購入した立派な一眼レフは、シャッターの辺りが少し錆びている。
「ほら、急がないと乗り遅れちまうぞ」
 未だ、こちらに背を向けたままにしている紗稀の肩を軽くたたいた。

 紗稀は先々月に転校してきた僕と同じクラスメイトである。そして偶然にも僕が部長を務めている写真部に入部した。どうやら前の学校でも写真部に入部していたらしく、都のコンクールで入賞した実力も持っているとの噂だった。
それはともあれ、彼女と写法やお気に入りの撮影ポイントなどを語らっている間に意気投合して、今では傍から見れば恋人同士に見えなくも無いほど彼女との距離は近くなっていた。
そんな折、紗稀が部室の奥に保管されていた先輩の写真を見つけたらしくその中の一枚をずっと眺めていた。多くの雑草に囲まれた草原、そして辺りを照らすように浮遊している若草色。蛍の群れを撮影した写真だった。コンクールには落選したものの、この写真をきっかけに先輩はプロのカメラマンになったのだそうだ。僕たちの部ではそれを先達の遺物として、額に入れて貴重保存していた。
私は都会育ちだから一度も見たことがないんだ。もし蛍が見られたら……#゙女はそんなことを口ずさんでいた。
窓際、オレンジ色に頬を染めながら物寂しそうに俯く彼女。僕はそんな彼女を放ってはおけなかった――それを恋というのかは別として。
 タイミングの良いことに、この話が出たのは五月下旬で蛍の見られる時期が近かった。日帰りが可能な範囲内で蛍の観測出来る場所……ダメ元でインターネットを利用して蛍の生息地域、活動時間を調べてみると意外なことに隣町に蛍の名所があることが分かった。
隣町であれば土曜の夜辺りが狙いどころか。次の日が日曜ということもあり気楽に行けるだろうし――ということで六月上旬〜中旬で都合のいい土曜……六月十日。
そんな成り行きで今回の計画は始まった。

 自分で誇張するのはあまり好きではないのだけど、計画を立てるという行為には自信があった。
中学校の修学旅行や、夏に友達と旅行した時に至るまで、「計画」と名のつくものは僕に一任されていた。友達に言わせると、一旦手をつけるとどこまでも調べ上げる性格らしい。
度が過ぎたお節介だとも付け足していたが。
読書感想文用に一冊本を買いたいから値段を調べて欲しいと知り合いに頼まれて、ネット販売から中古書店の値段までを比較したリストを渡したこともあった。
ネットは三件、中古書店は家の周辺にあったので二件、新本はどこでも同じなので一件、計六件調べた程度なのに、知り合いはやりすぎだろ……と唇を吊り上げていた。僕としては控えたつもりだったんだけども。
そして今回の計画は、電車のダイヤグラム、蛍の活動時間、紗稀の性格を考慮に入れて少しゆとりを持たせて作成した。これで難なく事が運んでくれればいいのだけれど……猿も木から落ちるって言うし、安穏な気持ちではいられないだろうな。

「念のために少し早めだけどホームに行っておこうか」
 何事も早めにやっておいて損は無いし、一度乗りそびれた後の待ち時間を潰すのが面倒だということもあって、全くこっちの意見を聞こうとしない紗稀にジュース一本を奢るということでなんとか怒りを鎮めてもらった。
「ちょ、ちょっと待ってね。さすがに重たいよ……」
「しょうがないな。僕がそれを背負っていくから代わりに僕の荷物を持ってて」
 ここへ来るまでに相当の体力を消耗したのだろう。疲弊しきって足も満足に動かせていない紗稀を配慮して、僕が代わりに荷物を持ってあげることにした。
「ありがとう。じゃあ先に行ってるね」
 たちまち笑顔になった紗稀がほいっとリュックを下ろし、僕の手荷物を掴むとパタパタとホームへ駆けていった。その仕草が可愛いと思ったのか、自分の口が自然と綻んでいることに気づいた。あまり感情を面に出さない性分だと自分では思っていたが、実際のところはそうでもないのだろうか。
回送電車の物々しい音を聞きながら、置き去りにされたリュックを軽く持ち上げようとした――が、持ち上がらない。腕に力が入り、掌にうっすらと汗が滲んでいる。重さとしては詰められるだけの教科書をありったけ詰めたような感覚だった。言い直せば約五〜六キログラムといったところか。
肩に掛けたリュックの未知なる中身に不安感を覚えつつ、足早に紗稀を追いかけた。リュックの負荷が全身へとかかり、スローペースになっている足取りで通路を歩く。あとは階段を上がればホームだ。
「おーい、早くしないとー、」
 電車に乗り遅れちゃうよ? という紗稀のとぼけた声と、その背後を後押しする突風のような滑車音が吹き抜ける。乱流した音が鼓膜を振るわせ、ちょっとしたものではあるが、旅の風情を思わせる。どうやら僕がリュックの重さにてんやわんやしている間に電車は到着してしまったようだ。
……だが。
なぜだか背筋がゾクっと、震えた。
僕の周りを生暖かく流れる風は一転して身体の芯まで到達する冷たさに変わった。
僕は階段の13段、残り5段程度でホームへ上り遂げるところで、意思の有無に関わらず立ち竦んでしまった。足がいうことを聞いてくれないどころか、小刻みに震えている。
 どうして僕は、こんなにも恐れているのだろう。それも、何に恐れているのかさえ分かっていないというのに。
「もう電車、到着しちゃってるよ〜!」
 遠くから紗稀の声が聞こえる。僕は首を左右に振って頭の中のもやを振り払い、慌てて腕時計を見ると電車の発車時刻まで後一分ほどになっていた。
田舎の電車は、都会のとは違って、ほとんどの区間が線路一本になっている。言い換えれば片側交通規制のような感じで、上り電車と下り電車がすれ違えられるポイントがこの小さな駅となっている。そのすれ違いの間、電車はこの駅で停止している。先ほど通り過ぎていった電車は、これから僕たちが行く方面から来たものなのだろう。
そこまで急かさなくてもいいのに、と僕はブツブツ呟きながら段差が少し高めになっている石造りの階段を一段飛ばしで上った。
――と、同時に「扉が閉まります。ご注意ください。」とのアナウンスが聞こえた。まだ時間はあるのにおかしいだろ……と頭の中では腑に落ちなかったがとにかく急ごうと思い、電車の扉の中へ駆け走った。
「ふう、なんとか乗れたね」
「乗れたことには変わり無いけど……迷惑かけちゃったな」
「大丈夫。『今日の失敗は明日の糧』って言うし、乗れればそれで良しだよ」
 乗車線の前に立っていた紗稀を先に乗り込ませ、続いて僕が乗ろうとした途端、扉が閉まりリュックが挟まるという一悶着になった。
乗務員が慌てて扉を開閉してくれたところを見ると、そうなるとは思っていなかったのだろう。僕が動いている電車の中を突っ立ちながら、悪戯をして怒られた子供のようにしょげていると紗稀が笑顔で僕の手を引いた。
「う〜ん、席がらがらだね。そうだ、ここに向かい合って座ろうよ」
 人気のない客席を眺め、紗稀が指差した先は窓際の向かいあっている二席だった。僕としてはとにかく座れればどこでも構わなかったので、紗稀の提言に頷いた。
そのまま窓側に座り、通路側の席にリュックを置く。紗稀も続いて窓側に座り、通路側に荷物を置いた。その後、紗稀の時計と僕の時計を見比べてみると、ちょうど一分ずれていることがわかった。
夕刻とは言えど、じめりとした湿気を含んだ蒸し暑さで額に汗が浮かんでいた。冷房は利いているものの、省エネルギーを勤めている為か弱めに感じた。僕の考えすぎかと思いながら向かいを見ると、だらけきった表情で紗稀が髪を整えている。
どうやらそう思ったのは僕だけではないようだ。少しでも暑さを和らげようと上下開閉式の窓に手をかけて押し上げる――ほんのり少し、前髪を揺らめかせる風の子供が開いた隙間から入ってきた。
「涼しいね。そういえば常磐くん、髪型変えたの?」
「ん? ああ。というか先月からこの髪型なんだけど……」
 先月の初め頃に真ん中分けにしていた髪型を思い切って六:四に変えてみたのだが、紗稀には気づかれなかったみたいだ。
自分としては新鮮味があって満足していたけれど、傍から見ればそうでもないのかもしれないな。
髪型を変えたといっても、分け目を僅かに右へずらしただけで、五分五分から六:四に移り変えたというちょっとしたことなんだけど。
友達は流石に気づいたようだったが、これといってヘンだとは言われなかったので結果オーライということにしてこの状態を保ったままにしていた。
「あれれ? 気づかなかった、ごめん」
 紗稀の表情が曇る。
「わざわざ謝ることでもないけどな。そんなことよりもここからだと町がよく見えるな」
 話題をさりげなく変えてみる。このまま息苦しい雰囲気を引き摺っていくのはさすがに後ろめたい。一応原因は教えなかった僕にもあるのだし。
紗希が振り向くのと同時、僕は首を動かして車窓の外へと視線を移した。

 六月の湿った空気、滑車が線路の上をガタンゴトンと渡る音、揺れる草木。
 線路の周辺に生えている雑草を手前に、右後方へ遠く離れていく町並みは、昔に見ていたものとは明らかに別物だった。
子供の頃、ソフトボールをして遊んでいた空地にはマンションが堂々と聳え立ち、加えて小学校の頃、父とよく虫取りに行っていた裏山にも開発の手が伸びていた。森林が伐採し尽くされた部分がハゲワシの頭のようだ。地肌が露出していて、台風が来ればそのまま土砂崩れにでもなってしまいそうなくらい脆そうに見える。
僕の眼にそう映ったのは、たぶん、その呆気のなさからだと思う。少なくとも、僕が生きてきたこの十数年間以上を山として存在していたものがほんの僅かな時の流れの間に土山と成り果ててしまったことに、心の中が空っぽになっていく――

 僕は、日常の世界に溶け込んでいたものがなくなるなんて考えたこともなかったから。
その場所に存在しているものは不動に在り続けるものなんだと、ずっと思い込んで、いたんだ。

でも実際にはこの瞳に映ったものがホントウの現実。写真は合成したりすることによって偽造するのは容易いけれど、自分の瞳はウソをつけない。
綺麗な山水が流れる路沿いにあった公園も開発範囲に入るのだという理由で取り壊す、という旨を示した看板が立っていた。
徐々に小さくなり見えなくなっていくその先にある、シーソーやブランコといった昔によく遊んだ遊具の断片が伺える瓦礫も全てホンモノなんだ……
目の前の物事を肯定し、受け入れることしか出来ない僕の心の中からすうっと大事なものが無くなってしまう感じがした。
自分の心の中にしまっておいた形のない大切なもの……
今までずっと共有してくれていたモノと共に、それはどこかへ消えていってしまった―――
自分でもどうしてこんな気持ちになるのか理解できず、無理やり頭の隅に追い払った。